「新潮45」休刊を「新潮」が語る

 時々行く本屋さん、スーパー内テナントですが、本の揃え方、展示の仕方を見ると店長さん、店員さんの商品である本に対する意識の高い事が見てとれます。毎週朝日と中日の読書欄の切り抜きを用意し、そこに取り上げられた本の在庫の有る無しが書き込まれています。

 買おうか買うまいか迷ったんですが、在日朝鮮人がどう生きてきたかをまとめたドキュメントの文庫本が長く平積みになっていたりして、埋もれている本の案内役という職業意識が見て取れます。少し立ち読みして自己弁護の域を出ずとみて結局買わず。

 ただ売れそうな本を並べるだけでは無く、本屋さんとしてのポリシーを持って運営している。少し遠いので頻繁には行きませんが、行けばそのポリシーに賛同するしないは別にして、背筋が伸びている事に敬意を払い何か買って帰ります。

 この間行った時、文芸誌関連のコーナーに「新発見草稿 永井荷風」という見出しの月刊誌、「新潮」11月号。「二人艶歌師」「渡り鳥いつかへる」という荷風の草稿、この内容が面白そうだったので購入。戦後すぐの下町情景、何か懐かしく惹かれるものがあります。

 未完の作品ですし筋書きも所々飛んで小説としての味わいは尻切れトンボですが、この解説を書いた多田蔵人という人の実に細かな資料分析、研究成果は読ませました。鹿児島大学准教授で83年生まれといいますから
35歳ですか。

 読み終わって、高橋源一郎が緊急掲載として「小川榮太郞氏の全著作を読んでおれは泣いた」という寄稿があるのに気が付きました。小川榮太郞氏といえば「新潮45」の杉田水脈論文のバッシングに対し、次号の反論企画に擁護論を寄せたうちの一人です。

 「そんなにおかしいか杉田水脈論文」という真正面から議論を吹っ掛けたこの号、面白い、良い企画だと思ったんですが、ポリティカルコレクトネスという御旗を掲げる層からの強い圧力でもあったのか、さらに議論を進めるべき良い機会だったのに休刊の憂き目。

 休刊する事は無かったのに、と思うけれど、ポリコレ層の圧力(かどうかは判りませんが)を具合の良い切っ掛けにしたのかも知れないし、スッキリしない幕切れではありました。一番スッキリしないのは杉田女史本人でしょう。

 結局あの問題はLGBTへの差別問題にすり替えられて、ポリコレ的に彼女は悪者にされ差別的だという事で謝らされてしまった。言葉の選択が悪かったのならそこを云えば良いのに、杉田議員の云いたかった国の予算の使われ方への異議については何処かへ消えてしまった。

 本質を隠してしまうために細部の不備を責め立てた。結果休刊する必要もない月刊誌が本屋から消え、正論を書いた杉田議員は悪い事にされてしまったと感じます。ただそのお陰でLGBT運動の胡散くささも浮び上がってきました。

 それで高橋尾源一郎の当該原稿、簡単に云えば、小川榮太郎氏の文芸評論家としての著作を読んでこんな文章を書いていたのかと知らなかった事に驚き、新潮45の文章を読んでまるで二つの人格が書いていると、まぁ結局批判している訳です。

 大袈裟な見出しの割に唸るほどの事はなかった。この稿を依頼した編集部の意図は、高橋源一郎の立ち位置を判った上で書かせている訳ですからこの寄稿は読者への撒き餌、編集長の書いた編集後記こそが云いたかった事なんでしょう。

 ここでも杉田論文の本質には触れず、擁護した小川榮太郎氏の言葉が、「変えられない属性に対する蔑視に満ち認識不足としか云いようのない差別的表現」であり、それを掲載した新潮45を批判。差別的表現に傷つかれた方々へお詫びしますと書いています。

 新潮社や新潮社の出す雑誌への批判もあったなら賛否合わせて自由な議論の場を提供すれば良いではありませんか。それこそ豊穣な意見の交換。ところがあれは差別的表現だと決めつけ、意に染まぬ論を掲載したから休刊というのは独善。

 まずLGBTへに発言についてどのあたりが差別なのか指摘して更に議論を深めたら良いのにと思います。LGBTの人達の間でも今回の動きに対し違和感を持つ人も少なからずあるようだし、かき混ぜて多様性が見えるようにしたら良かった。

 なのにこんな後記を書くのは、新潮社の発行する雑誌に、差別者だと認定した小川榮太郎氏他にこんな異論を書かれ面白くなかったんでしょうか。自分の美しい言い分は書くけど雑音は入れない。これで新潮社としてのLGBT論争は打ち切る。

 老舗出版社の品格が落ちるから、自分達の意に沿わない発言は排斥する。もう寄って来るな、とかなんとか。そう云っているように思えます。しかし差別って言葉、最強ですね。異論を挟ませない。ポリコレのスーパースター。それをまとった者勝ち。

 世界的にそれが潮流のようで、ポリコレポリスがあちこちで目を光らせ何だかギスギスした社会になってはいませんか。元は善意の塊なんでしょうけれど、度が過ぎると息苦しくもなります。以前は差別って言葉、肯定的にも使っていましたけどね。

 「差別化する」といって自社製品やサービスの向上を図るのに同業他社との切磋琢磨に使われていました。みんな云ってましたよ、「差別化するんだ」って、今はそう云う怒られるんでしょうか。唇が寒くなって、場合によっては口封じに使われかねない。

 ヘイトスピーチだって立派なポリコレ、ただ日本の場合この言葉が問題提起された経緯を見ていると、特定民族に対するヘイトばかりが取り沙汰されている事に気が付きます。他の民族は誰も文句なんて云っていない。これは恣意的ポリコレ、口封じでしょう。

 結局杉田発言は良い提議をしたのに、それが煙たい層から話をすり替えられてバッシング。新潮45も巻き添えで休刊。ただネットのお陰でこの背景、うごめきは晒されました。そして日頃寛容や多様性を口にする層ほど非寛容であり硬直してるって事も。

 
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 文化の日。ここの所穏やかな良い天気が続きます。
 

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