田辺聖子さんと川柳

 田辺聖子さんが亡くなられた。91歳、昭和3年3月27日に大阪生まれ。私は3月28日生まれ、丁度20歳違い、一日違いでも何となく嬉しい。田辺聖子さん、著作多すぎて全部読んだ訳じゃないけれど好きな作家でした。

 エッセイは「カモカのおっちゃん」とか文春の連載で楽しみましたが、それ以前に小説現代に連載された「古川柳おちぼひろい」、江戸時代の「誹風柳多留」からの撰、庶民の暮らしを解説してその面白さに目覚め田辺聖子ファンかつ川柳ファンに。

 これは昭和50年頃の事、その後58年頃に同じく小説現代で「川柳でんでん太鼓」を連載。これを読んで、川柳はかろみやくすぐりだけに終わらず文学たり得るものなんだと気が付きました。さらにこの流れを受けて出たのが「道頓堀の雨に別れて以来なり―川柳作家・岸本水府とその時代」

 これは岸本水府という川柳作家の評伝であり、現代川柳の歴史を俯瞰し川柳に魅せられ集まった多士済々の横顔とその作品を丁寧に描いています。田辺聖子の筆力があって、自分がまるで大阪の良き時代にいるかの様に読み進められました。

 だから一時大阪、ミナミあたりに凝って、家人とばあさん連れわざわざ何回も出掛け、ウロウロしたりもしました。自由軒のカレーを食べたり小さい二つのお椀の夫婦ぜんざい頼んでみたり、グリコの看板前に佇んだり、大阪情緒に浸りきったものです。

 大阪は よいところなり 橋の雨

 千日前 肩をたたくと 連れになり

 法善寺 芝居のような 雪が降り
 

 表題の、
 
 道頓堀の雨に別れて以来なり 

 
 本棚探したら「定本 誹風末摘花」、その横に「川柳大辞典」上下2巻。これは「古川柳おちぼひろい」を読んで江戸川柳の世界に入り込み、あの頃関東にいましたから何処かの本屋さんで見つけ買ったものです。回りにそれとなく自慢したけど誰も反応しない。

 この本の編者は大曲駒村、この人は荷風の知り合いでもありました。以前に取り上げた事があります。「荷風散人と阿部さだ」、昭和19年の戦争末期に、

 ・・ここ両三年食物の事にて忘れがたき人々の名をしるす・・6人程の名、その中に小堀杏奴、鴎外の次女。8日、炊事苦痛なり。午後大曲喜代子(駒村未亡人)来たり紀州蜜柑一箱おくらる・・

 駒村という人は銀行員で古川柳の研究家。関東大震災を記録した『東京灰燼記』も出版。荷風日記に駒村との交遊を見つけて一人悦に入ったものです。大曲駒村(くそん)なんて名前普通知りませんから。駒村は福島相馬の出、前年18年に亡くなっています。

 
 田辺聖子の本では「姥ざかり 花の旅笠」という本も引き込まれて読みました。「小田宅子の東路日記」と副題、おだいえこさんは高倉健の五代前のご先祖さん、商家の五十代のお内儀さんが同行の女性3人と男衆3人を連れ筑前からお伊勢さん詣で。

 片参りは良くないと善光寺にも回り、さらに二荒神社、日光詣で。江戸に出て帰路。正月に出立し6月に戻る八百里、その記録を小田宅子が書き田辺さんが読み解き解説。江戸という時代、商家の女将さんの教養、田辺聖子の博識。

 荷物持ちの男衆3人が付くとはいえ半年の女4人旅、無事歩いて戻る。天保年間、あの当時の世界にそんな国無かったでしょう。半年間の路銀、相当掛かるはず。金貨持ち歩けば重くて物騒、じゃ、どうしたかと云えば為替を利用、紙に書いた信用で調達。

 又々そんな国無かったでしょう。田辺さんも後書きで書いていますが、その少し後に日本は明治維新を成し遂げた。国中シッチャカメッチャカだったろうに良く成した。その底力の元は底辺の民衆の精一杯の努力、さらに女達の生命力であろうと。

 普通の商家の一女性が残した江戸時代の記録。お上の締め付けが厳しかった時代に、川柳というおかしみを含んだ皮肉で庶民は憂さを晴らした。それは時代の生き生きとした記録。その奥深さと面白さ、楽しさを田辺さんの案内で知りました。

 NHKのドラマ「芋たこなんきん」で田辺さんが出て来るシーンをたまたま見ました。あ、これは田辺さんのお別れの挨拶なんだろうなとその時思ったものです。当時80少し前、早めのご挨拶。以降静かに余生を送られた。だから訃報を穏やかに受け止められます。

 合掌。

 
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 梅雨の晴れ間。午後からまた雨の予報。

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